ぶらり見て歩記 | 姫路市 飾磨区
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08年9月28日、妻鹿屋台・だんじり新調入魂祭で何時もお世話になっている 田井、糸井の方にお会いしました。 その時に御幸屋台が今年完成で本日、御幸公民館で新調された露盤が披露されて いるので見に行きましょうかとお誘いがあり、新調入魂祭が終わった後、公民館に お邪魔して拝見させて頂きました。 彫り物は詳しくないので、会場で頂いた資料をそのまま書き添えておくことに いたします。 |
露盤制作
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三代目 南部白雲木彫刻工房
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彩色(開眼)
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平安宮絵師 安川如風
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倶利伽羅峠の合戦・火牛の計
信州の木曽山中で兵を挙げた源(木曽)義仲は京都を目指して北陸道を突き進み、 倶利伽羅山(砺波山)で平維盛の軍と戦った。平氏の平維盛は倶利伽羅山中の 猿ヶ馬場に本陣をひいて待機、源氏軍を待ちかまえていた。 しかし源氏の木曽義仲は奇襲戦法「火牛の計」を図り、夜半に上方より法螺貝、 太鼓を鳴らしたうえ、角にたいまつをつけた牛(火牛)500頭を 平氏軍につっこませる。昼間の進軍で疲れきっていた平家軍は奇襲を受け、 右往左往し何もできない。 やがて平家軍一万八千余騎は源氏の軍に追いつめられ、人馬もろとも地獄谷に 突き落とされたという。 源平合戦で名高い奇襲戦法「火牛の計」で木曽義仲率いる源氏軍は勝利を収め、 平氏軍を全滅させた。 (C)Art.Kaede |
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一ノ谷の合戦・畠山重忠
義経は馬2頭を落として1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。 義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ。」 と言うや先陣となって駆け下った。坂東武者たちもこれに続いて駆け下る。 二町ほど駆け下りると、屏風が立ったような険しい岩場となっており、 さすがの坂東武者も怖気づくが、三浦氏の一族佐原義連が「三浦では常日頃、 ここよりも険しい所を駆け落ちているわ。」と言うや真っ先に駆け下った。 義経らもこれに続く。大力の畠山重忠は「馬を損ねてはならぬ」と 愛馬 三日月を背負って岩場を駆け下った。 予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の平氏陣営は大混乱となり、 義経はそれに乗じて方々に火をかけた。 平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。 (C)Art.Kaede |
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屋島の合戦・錣(しころ)引き
源氏:三尾屋十郎 平氏:悪七兵衛景清 平氏の武者が浜に降り立って、こちらへ来いと手招きするので、 義経は若武者に行って蹴散らせと命じた。そこで、武蔵国の三尾屋十郎、 四郎、藤七、上野国の丹生四郎、信濃国の木曾中次の五騎が駆けつけた。 真っ先に駆けて行った十郎の馬が、射られ転倒したので、 十郎は馬を下りることになった。そこで、大薙刀をふるって平家の武者が 切りかかってきた。やりあっているうちに十郎の太刀が折れたので、 十郎が逃げ出すと、兜の錣(シコロはカブトの後ろに付いている首を守る覆い)を 掴まれた。 十郎も敵も力が強いので、しばらくは引き合ったままであったが、 やがて錣が引き千切れた。平氏の武者は、千切れた錣を高々と掲げて、 「我こそは京童の悪七兵衛景清」と名乗った。 十郎が景清の腕の強さを誉めると、景清は十郎の首の強さを誉めたという。 老いて盲目となった景清は「目の神」であるとも云う。 (C)Art.Kaede |
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壇ノ浦の合戦・平知盛(碇知盛)
進退窮まったところで自分の体が浮き上がらないように 碇の綱を体に巻き付けて「見るべき程の事おば見つ。今はただ自害せん」 と言い残して海に飛び込む平知盛の最期。 このとき、知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着てそれを錘にし、 入水したとも言われている。 入水後遺体となるか、あるいは生きたまま浮かび上がって晒し者に なるなどの辱めを受ける事を避ける為の心得である。 (C)Art.Kaede |
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